100円のりんごを5個買った合計金額はなぜ100×5なのか?


元ネタはいくつかあるけど今日見かけた記事にリンクしておく。

かけ算の順序にこだわる教師と出版社の皆様へ

たびたびネット上で見かける話題である。ここ1週間ぐらいのうちでも何度か見かけた気がする。

「100円のりんごを5個買った。合計金額はいくらか?」という算数の文章問題の解答は「100×5=500 / 500円」でなければならず、「5×100=500 / 500円」では誤りとするのはおかしい。日本の教育は間違っているというハナシ。

そもそも日本以外ではこういう教え方してないのだろうか?それこそ国外の教育に詳しい方におききしてみたいものであるが。

まず大前提として、この問題はわざわざりんごや金額といった具体的なメタファーを用いて出題されている。つまり、抽象的な算術演算をせよといっているのではなく、具体的に論理的思考をせよと言っているわけである。

つまり「いくらのものをいくつ買ったのでいくらになったのだ」という答えを期待しているのである。

掛け算だから誤解するのだろう。これを加減算として考えなおそう。「5-1」と「-1+5」は同じ意味ではないことは、「5個のものから1つ減らした」「1つ不足しているところに5個補充した」といったメタファーを持ち出すまでもなくわかると思う。

問題が「100円のりんごを5個買ったら合計金額はいくらか?」ではなく、「5個のりんごを1つ100円で買ったら合計金額はいくらか?」だっとしても、100円のものが5個ある、つまり100の5倍で500円ということには変わらないので、式はどちらも「100×5」である。これは日本語の問題ではなく、理論的思考の問題だからだ。

もちろん、「100×5」と「5×100」が値として等価であることはとても重要だ。これも加減算のハナシとして考えてみると、「-1+5」より「5-1」の方が簡単なわけで、各数値を抽象的な単なる数値だとして入れ替えたり約したりすることでシンプルにできるということも「手段」としてはとても重要である。

さて、ここで問題なのは、なぜ今この時代にあえてそういった教え方が強化されているように思えるのか?ということである。いや実際強化されているのかどうかよく知らないけども、そうだと仮定して以下を考えてみよう。

ある問題があり、その問題そのものを、もしくはその問題を解決する手順を数式で表したとしよう。それがとても長い数式になり、計算するのもとても時間と労力がかかるとする。

であれば、その式を抽象化し、入れ替えたり約したりして単純化し、数式を短くしたり計算を簡単にするのはとても重要なことだ。それによって記録するべき量が減り、解答を出すことが早くなる。もっと言えば、途中の式はどうでもいいので答えだけ記録しておけばハナシは早いかもしれない。

しかしここで、長い数式を記録したりその数式を素早く計算するということを、人類がしなくてもよければ、いや、人類よりもっと得意で信頼のできるものに任せることができるとしたらどうだろう。

答えを出す手段を知っていることと、答えを出すことは確かに重要だ。しかしそれを肩代わりしてもらえるのであれば、そもそも問題はなんであり、どのように考えるべきものなのかと言ったことの比重が高くなる、いや高くするべきなのではないだろうか。

いくつかのペンキの缶をひっくりかえしたら偶然アートみたいなものができたということと、ペンキの缶をひっくりかえしたらアートになることを知っていた、もしくはアートになるんじゃないかと推測してわざと(意志をもって)ひっくり返すのとでは意味も意義も違ってくる。

かつて人間のリソースが限られていたので手段と解答に比重が置かれていたのだとしたら、その制限が解消されるのならば、より根源的で創造的な問題に「も」比重を置くべきだ。

「100×5と5×100の意味が違う」ということは、コンピューターではなく、人間が知っていることなのであり、知っているべきことなのである。答えと手段であればコンピューターだって知っていることだ。

こんなことはわざわざオレなんぞにえらそーに言われなくてもプログラマーであれば当然理解していることだろうしそういうことを意識してプログラミングするだろうと思っていたのだが、元記事を書かれた方が「ソフトウェア・エンジニア」だそうなので、ちょっと驚いて書いてみた次第。


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